望遠鏡の発明と歴史

今や誰でも知っている望遠鏡の原理ですが、1608年に屈折望遠鏡が発明されるまでは、 この世に望遠鏡というのは存在しませんでした。 遠くの景色を今のように大きく見たり、映し出したりすることはできなかったのです。 そうした望遠鏡の始まりと開発の歴史をこちらで紹介してみましょう。


レンズの登場

レンズという名前は、レンズ豆という小さな豆の形に似ていることから付けられたといわれています。 13世紀頃にはレンズが物を拡大できることが知られていて、早くから老眼鏡などに応用されていたようです。

当時のレンズは、今のようなガラス製ではなく、水晶や宝石を磨いてレンズの形に整形した物でした。 その頃は透明なガラスはまだなかったのです。宝石を磨いて作るわけですから、レンズは非常に高価な品でした。 庶民には縁の遠い貴重品で、一部の王族や貴族だけがレンズを使っていました。

14世紀頃になると、ガラスの製造がベネチアで盛んになります。 薄く色がついているものの、ほぼ透明なガラスが製造されるようになり、眼鏡の材料となるレンズが流通するようになります。 この頃になって、やっとレンズは庶民の手に入れられる製品になりました。


望遠鏡の発明

1608年、オランダのリッペルスハイという人が望遠鏡を発明しました。 初めての望遠鏡は、光を集める部分にレンズを用いた屈折式望遠鏡でした。 同時期にいろいろな人が望遠鏡を発明した、という伝記が残っていますが、リッペルスハイが発明者として広く認知されています。

この頃ヨーロッパの国々は、激しい争いを繰り広げていました。 イギリスがスペインの無敵艦隊を破ったのが1588年、世界最初の株式会社、東インド株式会社ができたのが1602年のことです。 こうした乱世の時代ですから、軍事や航海のために、遠くを見ることができる望遠鏡は待ち望まれていた品でした。 リッペルスハイの望遠鏡は、オランダ政府から高く評価されます。 と同時に、オランダ政府は、望遠鏡の製造技術の流出を厳しく制限するようになりました。

オランダは望遠鏡の独占をもくろみましたが、すぐに望遠鏡の理論が知れ渡ります。 きっと高価な望遠鏡を売りつけられていた商人が、自分で作ってみようとしたのでしょう。 「2枚のレンズを組み合わせれば遠くの景色が大きく見える」という重大なヒントが広まりだします。 あるとき、その噂がガリレオ・ガリレイの耳に入ったわけです。


ガリレオ・ガリレイ

ガリレオは1564年にイタリアのピザで生まれました。ガリレオは医学を学んだ後、理学も学ぶようになり、1591年に大学の数学教授となります。 ガリレオは天体に興味を持ち、望遠鏡が作られる以前から天体の観測を行っていたようです。 その彼が望遠鏡を得たわけですから、その望遠鏡を天体の観測に使うことは極めて自然なことだったのでしょう。

1609年にガリレオは自分で望遠鏡を製作します。 この時ガリレオが作った望遠鏡は、凸レンズと凹レンズを組み合わせた望遠鏡で、極めてシンプルな望遠鏡でした。 今でもこの方式はオペラグラスに用いられ、ガリレオ式望遠鏡と呼ばれています。

彼はこの望遠鏡を使って、月面の凹凸や天の川が星の集まりであること、金星の満ち欠けなど数々の発見をします。 中でも木星の衛星を観測し、その周期を求めたことは有名です。この4つの木星の衛星は、今でもガリレオ衛星と呼ばれています。

ガリレオは土星も観測して土星が奇妙な形をしていることに気づきますが、環があることまではわかりませんでした。 当時の望遠鏡では性能が悪く、像が安定していなかったためでしょう。 ガリレオはたくさんの望遠鏡を製造しましたが、その1割しか使い物にならなかったといいます。 レンズに使用しているガラスの性能が悪かったためです。


ケプラー式望遠鏡

ガリレオが自作望遠鏡で天体を観測していた頃、ドイツ出身のヨハン・ケプラーが凸レンズ二つを用いる望遠鏡の設計図を発表します。 これがいわゆるケプラー式望遠鏡で、現在の天体望遠鏡の基礎となります。

ガリレオが作ったガリレオ式望遠鏡は正立像でしたが、ケプラー式は倒立像になります。 ガリレオ式で問題だった倍率を上げると急激に視界が狭くなる、という短所を解消した望遠鏡です。 ケプラーこそ現在の望遠鏡の生みの親と言えるでしょう。

なお、ケプラーは理論家で惑星運動の法則を見つけた物理学者としても有名です。 惑星が楕円軌道を描いて公転していることは、現在公知のことですが、彼が発見したことです。


広まる望遠鏡

航海での需要もあり、望遠鏡は一気に広まっていきます。 レンズを何枚も組み合わせた正立望遠鏡や、射撃に使うための望遠鏡も開発されました。 それとともにレンズ磨きの職人が登場しています。

地上用の望遠鏡ではガリレオ式が広く用いられましたが、天体観測の分野では像の倒立は気にならないので、ケプラー式望遠鏡が普及しました。 より高い倍率を求める天文学者にとって、視野が広いケプラー式の方が、都合が良かったということもあるのでしょう。 望遠鏡の普及と共に、レンズの口径はどんどん大きくなっていきます。

レンズの口径が大きくなると、収差の量がだんだんと増えていきます。 当時のレンズは今のような色消しレンズではありませんから、単純な単レンズです。 虫眼鏡に入っているレンズを連想するとわかりやすいでしょう。 そうしたレンズは、口径が大きくなると色にじみが多くなります。 これを防ぐためには、レンズの曲率半径を薄く(レンズの丸みを薄く)して、焦点距離を伸ばさなければなりません。 そこで非常に長い望遠鏡が作られるようになりました。 空気望遠鏡の登場です。


ヘベリウスの空気望遠鏡

空気望遠鏡とは、鏡筒部分がない望遠鏡のことです。 この頃、収差を減らすために対物レンズと接眼レンズの距離をとても離していました。 あまりにも離れているため、鏡筒を製作できず、両方のレンズを一本の棒で固定するだけで観測を行っていました。 こうした望遠鏡を、空気望遠鏡と呼んでいます。

空気望遠鏡の中では、ヘベリウスのものが有名です。 彼は現在でいうとポーランドの市会議員でした。 彼は元々大きな望遠鏡で天体観測を行っていましたが、1673年に長さ45メートルの空気望遠鏡を製作します。 3軒の家をまたぐほどの大きな望遠鏡です。この時のレンズの直径は15cmでした。

せっかく作った大空気望遠鏡ですが、あまりに大きいために風や震動の影響を受け、ろくに観測できなかったようです。 1682年に登場したハレー彗星を観測したのが、この望遠鏡の唯一の成果だとも伝えられています。


反射望遠鏡の登場

皆が空気望遠鏡で天体の観測を行っていた頃、ニュートンはプリズムで分光の実験を成功させます。 その後、彼は1668年にニュートン式反射望遠鏡を発明します。レンズを用いず、鏡で光を集める望遠鏡です。 ニュートンは分光の実験からレンズの色収差を推察して、屈折望遠鏡には未来がないと考えていたようです。

ニュートンの作った望遠鏡は、主鏡の直径が50ミリで38倍だったと言われています。 この反射望遠鏡は、鏡筒自体を前後してピントを合わせる簡素な反射望遠鏡だったようです。 今では反射望遠鏡の主鏡には放物面鏡が使われていますが、この頃の主鏡は球面鏡でした。 このぐらいの口径なら問題なかったでしょうが、口径が大きくなると、球面収差に悩まされたことでしょう。


巨大望遠鏡の台頭

反射望遠鏡は大型化が容易なため、この後、巨大な反射望遠鏡が各地で作られることになります。 ハーシェルは1778年に口径16センチの反射望遠鏡を製作し、これで天王星を発見します。 天王星の発見は人類史上大きな発見で、彼は一躍有名人になります。

その後、彼は有名な20フィート望遠鏡(後期形)を製作します。 口径は47.5センチと、現在の尺度でも大きな部類に入る望遠鏡です。 彼はその20フィート望遠鏡を愛用し、全天の星数を調査します。全天の掃天を行ったわけです。 ちなみに、この20フィート大望遠鏡を動かすのは大変なことでした。 観測する方向に望遠鏡を移動させるのは大変な作業で、2人の助手を使って15分以上かかったと言われています。 現在の赤道儀のありがたさがわかりますね。


金属鏡からガラス鏡へ

この頃の反射望遠鏡に使われいた反射鏡は、現在のようなガラスにアルミコーティングをしたものではなく、 金属を磨いて光を反射させる金属鏡でした。 鏡材には、スズや銅などの合金が使われ、研磨機で研磨して作成していました。

この金属鏡を使った望遠鏡の最後を飾ったのが、ロード・ロッスの6フィート反射望遠鏡です。 6フィートと言えば、口径が180cm以上もある望遠鏡で、現在でも非常に大きな口径の望遠鏡です。 これはハーシェルが作った望遠鏡の1.5倍の口径でした。 ロード・ロッスはこの大望遠鏡を使って、りょうけん座のM51銀河が、私たちの銀河系と異なる別の銀河であることを立証します。 当時の宇宙観をひっくり返す発見でした。

この後、1830年頃にイギリスでガラスに銀メッキする方法が発明されます。 これがナイフエッジテストを発明した、レオン・フーコーに伝わり、精度の良い銀メッキガラス鏡が作られるようになります。 現在の反射望遠鏡の原型が、この時作られたのです。


色消しレンズの発明

反射望遠鏡の登場で押され気味になった屈折望遠鏡ですが、屈折式には反射式にない優れた特性がありました。 望遠鏡の向いている方向と、観測者が見ている方向が一致しているということです。 これは方向などを知るにはとても都合が良く、屈折望遠鏡は測量機としての色を強めていきます。

やがて屈折望遠鏡に十字線を張り、天体の位置観測を行うようになりました。 二重星の離隔を測定したりと活躍し、その後、こうした用途には屈折式が独占的に用いられるようになります。 六分儀や八分儀という測量機も製造され出しました。

しかし、屈折式にとって、色収差は悩みの種であることには変わりありませんでした。 あるときイギリスのホールという弁護士が、色消し対物レンズの製作に成功します。 1729年のことで、屈折式の長年の問題が解消された記念すべき時でした。 この後、屈折望遠鏡に色消しレンズが徐々に用いられるようになりました。

と言っても、当時の色消しレンズは非常に高価で、庶民には手が届かない物でした。 一部の金持ちの所有物だったと伝えられています。 また、光学ガラスの製造も勘や経験に頼った物で、安定した性能を得るにはほど遠いものでした。


望遠鏡のその後

屈折望遠鏡は、その後、フラウンホーフェルらによって、ガラスの製造理論が確立されていきます。 それとともに対物レンズの性能は向上し、屈折望遠鏡も大型化していきます。 アメリカに、口径102センチのヤーキス天文台、90センチのリック天文台などが建設されました。 屈折望遠鏡が最も活躍したのは、火星の運河を観測しようと世界的な気運が持ち上がったときです。

また、反射望遠鏡も新しい光学系を取り入れて大型化していきます。 掃天を目的としたシュミットカメラ、副鏡に凸面鏡を使ったカセグレン式、高次非球面鏡を組み合わせたリッチークレチアン式など、 時代の需要に合わせて複雑な光学系が生まれました。 反射望遠鏡の場合には、広い視野の確保が最大の課題でした。

デジタル時代になると、色収差が全く生じない反射式が好まれるようになりました。 現在、世界の天文台のほとんどは、反射式が主流になっています。 日本のすばる望遠鏡も、このリッチークレチアン式を用いています。 屈折望遠鏡は、大型になるにつれてレンズの重さが増し、レンズが自重でたわんでしまうことがあります。 こうしたことも影響しているのでしょう。 大型の望遠鏡は全て反射式になってしまいました。

歴史を紐解いていくと、望遠鏡という一つの製品と言っても、多くの人が関わってできてきたものだということがよくわかります。 目の前にある望遠鏡、そういう視点で触れてみると、今までとは違った感動が生まれてくるのではないでしょうか。

参考:屈折望遠鏡光学入門